山崎照朝さん(極真空手)が死去!享年77歳で息子が発表

2025年6月22日、極真空手界のレジェンド・山崎照朝さんが亡くなりました。
享年77歳、死因は胆管がんだったと、ご家族がSNSで発表しています。
息子の山崎倍実(ますのり)さんは「父は最後まで毅然とした態度を貫き、家族にとって大きな支えでした」とコメントを発信。
通夜と告別式の日程もあわせて案内され、多くのファンや格闘技関係者から追悼の声が寄せられています。
個人的な話になりますが、私は10代の頃に空手道場に2年ほど通っていた時期がありました。
極真空手の稽古は、技術ももちろん大事ですが、まず「精神」が試される世界で、正直、かなり厳しかったです。
当時、山崎照朝さんのことも知っており、「本物の空手家ってこういう人なんだ」と思わされたのを今でも覚えています。
死因として報道された胆管がんは、進行に気づきにくく、発見されたときにはすでに重篤なケースが多いがんです。
そんな中でも、最後まで周囲を気遣いながら静かに旅立たれたという話を聞いて、本当に芯の強い方だったのだなと胸が熱くなりました。
力石徹のモデル!山崎照朝さんの空手と波乱の経歴
山崎照朝さんは、空手漫画『空手バカ一代』のモデルとしても知られる空手家で、「極真の竜」「日大の竜」と呼ばれるほどの存在感を放っていました。
その異名が示す通り、実力と風格の両方を兼ね備えた人物だったと言えるでしょう。
極真会館に高校時代から所属し、大山倍達さんや石橋雅史さんの指導を受け、空手家としての基盤を築いた山崎さん。
その後、1969年の「第1回全日本空手道選手権大会」で見事初代王者に輝き、極真空手界における確固たる地位を築きました。
その後もキックボクシングや異種格闘戦など幅広く活動。
漫画『空手バカ一代』では主人公・飛鳥拳のライバルキャラ「竜飛車」として登場したり、アニメ版では主題歌を自ら歌うなど、まさにメディアでも多才ぶりを発揮しました。
私自身も道場時代にVHSで山崎さんの試合映像を見たことがあります。
その佇まいは実に静かで、無駄のない動きが印象的でした。
いわゆる“力強さの暴発”ではなく、精神と技が完璧に調和した空手。
今振り返っても、心がビリッと引き締まるような映像でした。
次は、極真空手界において山崎照朝さんがどんな功績を残したのか見ていきましょう。
極真空手の初代王者・山崎照朝の実績と影響力とは?
山崎照朝さんの名前を語る上で外せないのが、極真空手における初代全日本王者という肩書きです。
1969年、記念すべき第1回大会で優勝を飾り、その後の空手界の方向性に大きな影響を与えました。
この大会では「静かな構えから繰り出される強烈な上段回し蹴り」が武器とされ、そのスタイルは多くの後進に模倣されるほど。
また1973年には再び決勝に進出し、盧山初雄さんとの名勝負を演じるなど、勝ち負け以上に記憶に残る戦いを見せてくれました。
引退後は空手道場「逆真会館」を立ち上げ、ボランティアで指導を続けるなど、空手への情熱を最後まで失いませんでした。
その一方で、東京中日スポーツなどで格闘技記者としても活動。
言葉でも空手界を支えてきた姿勢には、今でも多くの関係者から尊敬の声が上がっています。
次は、山崎照朝さんの死に対して格闘技界がどのような反応を示したのかをご紹介します。
空手界からの追悼と今後の影響は?後進に残したもの
山崎照朝さんの訃報が伝えられてから、多くの格闘技関係者やファンから追悼の言葉が相次ぎました。
特に、空手家や関係道場の関係者からは「自分の道を切り開いてくれた先駆者」「精神性を重んじる空手の象徴だった」という声が多く見られました。
また息子の山崎倍実さんも、SNS上で「父は最後まで周囲を気遣い、一切弱音を吐かなかった」と綴っています。
この言葉は、まさに山崎さんらしい生き方そのものを象徴していると感じます。
彼の残した道場や教えは、今も多くの弟子たちに受け継がれています。
私自身、短い空手経験ではありましたが、山崎さんのスタイルから「空手とは何か?」という問いをもらった気がしています。
一撃に宿る心。言葉にせずとも伝わる“構えの強さ”。
それは技術以上に、大切な「教え」だったのかもしれません。