山内順仁さんが死去:写真家人生に幕

山内順仁さんが2025年7月31日に66歳で亡くなったというニュースは、多くのファンにも大きな衝撃を与えました。
山内さんが撮り続けてきた数々の著名人の記憶とともに、多くの人がその存在の大きさを再認識しています。
この記事では、写真家・山内順仁さんの歩みを振り返りながら、代表作や人柄、残された家族との関係などを丁寧に紹介していきます。
最後のSNS投稿に込めたメッセージとは?

山内順仁さんの生前最後の投稿は、X(旧Twitter)に投稿された1枚の写真と短い言葉でした。
JR鹿島線の「0番ホーム」の風景に、「違う世界へ連れてってくれる arigato」と添えられた一文は、どこか旅立ちを予感させるものでした。
この投稿には、多くのフォロワーが「ありがとう」「泣けてくる」といったコメントを寄せており、その反応からも山内さんの人柄が伺えます。
死因は?公表されていない理由とその背景
今回の訃報に関して、死因は公式には公表されていません。
発表を行ったのは元妻の山内乃理子さんで、彼女のインスタグラムで「虹の橋を渡り永眠致しました」とだけ報告されています。
10年以上前に離婚していたにもかかわらず、3人の子どもたちの父としての存在を尊重し、長男を中心に親族のみでの弔いが行われたことも印象的です。
筆者自身も家族を持つ40代の立場として、元夫婦であっても深く繋がっていた関係性に心を動かされました。
公表しないという選択には、遺族の「静かに送り出したい」という強い思いがあったのではないでしょうか。
山内順仁さんの経歴と功績:写真家としての歩み
山内順仁さんは、1959年に千葉県で生まれました。
東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)の商業写真科を優等賞で卒業し、若くして写真の世界へと飛び込みました。
そこからプロの現場で経験を積み、1982年には師匠である武藤義さんのもとを離れ、独立。
事務所を構えて以降、40年以上にわたり数多くの有名人を撮影してきました。
40代のシステムエンジニアである筆者としては、「技術職としての職人魂」を感じるキャリアに深く共感します。
システム開発の世界も、写真の世界も、“構図”や“光”や“仕様”を設計するという点で通じるものがあります。
山内さんは、時代の波に流されず自分のスタイルを貫いていた、まさに技術者の鑑のような存在でした。
それでは次に、彼の写真家としての原点とも言える修業時代について、もう少し詳しく見ていきましょう。
東京写真専門学校から独立までの道のり
学生時代から頭角を現し、卒業時には優等賞を受賞するなど早くから写真の才能が評価されていた山内順仁さん。
その後、写真家・武藤義さんに師事し、プロとしての土台を築きました。
「学びを重ねながら技術を磨く」という姿勢は、写真の世界でも、ITエンジニアの世界でも共通する価値観です。
筆者自身も20代の頃は、先輩に付きっきりで技術指導を受けていた時期があり、その時の姿勢が今でも仕事の基礎になっています。
山内さんがこの時代に培った「被写体との距離感」「一瞬を逃さない集中力」「作品へのこだわり」は、後の作品にも強く反映されています。
そして1982年、30歳を目前にして自身の事務所を立ち上げ、本格的にプロ写真家としての道を歩み始めます。
尾崎豊との名コラボ:代表作『WORKS』『MEMORIAL』の魅力

山内順仁さんの写真家としての代表的な功績の一つが、尾崎豊さんとのコラボレーションです。
彼が撮影した写真集『WORKS』や『MEMORIAL』は、尾崎豊さんの魅力を余すところなく引き出した名作として今なお語り継がれています。
写真という表現を通じて、音楽家・尾崎豊の内面を写し出した山内さんの手腕には、同業者も一目置くほどの説得力がありました。
筆者も若い頃にこの写真集を手に取ったことがありますが、静止画でありながら歌声が聞こえてくるような感覚に驚かされました。
それでは、この2つの写真集について、もう少し深く掘り下げていきましょう。
『WORKS』に込められた尾崎豊のリアルな表情
1988年に発表された写真集『WORKS』は、尾崎豊さんがまだ若く、エネルギーに満ちた時期の姿が詰め込まれた一冊です。
ライブの舞台裏、ふとしたオフショット、笑顔と険しさが同居するような表情など、どのカットからも“生きている尾崎豊”が伝わってきます。
撮る側と撮られる側の信頼関係がなければ撮れないような写真ばかりで、写真家としての実力がよくわかる作品です。
40代になった今、自分自身の若い頃の写真を見返すことがありますが、記録されているのは“姿”以上に“時間”だと実感します。
山内さんの写真にも、尾崎豊さんの“その時の心”が閉じ込められているように思います。
遺作ともいえる『MEMORIAL』の時代背景とは?
1992年に発表された『MEMORIAL』は、尾崎豊さんがこの世を去った後に制作された追悼的な写真集です。
故人を偲ぶファンに向けて、その生涯をビジュアルでたどるように構成されており、まさに“メモリアル”という言葉がふさわしい作品です。
ページをめくるごとに、尾崎豊という存在がいかに人々の心を揺さぶっていたかを再認識させられます。
この作品を作り上げた山内さんの心中を想像すると、写真家としてだけでなく、人間としての葛藤や覚悟があったのではないでしょうか。
筆者としても、技術職に従事する中で“人を送り出す”ような作業を何度か経験していますが、そこには手を動かす以上の責任と愛情が求められます。
山内さんは、この写真集を通じて“言葉ではなく写真で”追悼するという姿勢を貫いたのだと感じます。
吉川晃司・仲間由紀恵・酒井法子…豪華芸能人との名場面
山内順仁さんは、尾崎豊さん以外にも多数の有名芸能人を撮影してきました。
その中でも特に注目されるのが、吉川晃司さんや仲間由紀恵さん、酒井法子さんとのコラボレーションです。
いずれも、単なるポートレートにとどまらず、被写体の魅力や個性を最大限に引き出した作品として高く評価されています。
被写体をどう“魅せるか”にこだわる山内さんの姿勢は、筆者がシステムエンジニアとしてUIや設計に悩む時の感覚にもどこか似ていると感じます。
ただの記録写真ではなく、“作品”として残す。
その徹底した美意識こそが、プロの写真家としての真骨頂なのかもしれません。
それでは、各タレントとの名場面について、詳しく見ていきましょう。
吉川晃司との代表カットと現場エピソード
吉川晃司さんとの代表作のひとつに、写真集『A MAN IN TROUBLE』があります。
この作品では、吉川さんのクールで挑戦的なイメージが印象的に描かれており、その世界観の作り込みには定評があります。
ある撮影では、わざと光を強く当てて“陰影”を際立たせた構図を選んだそうで、写真家としての冒険心と表現力が感じられます。
技術者として細部にこだわることの多い筆者から見ても、「細かいディティールで全体の印象が変わる」という点に非常に共感します。
山内さんは、その瞬間の吉川さんの“男の色気”と“繊細さ”の両方を1枚のフレームに収めることに成功していました。
仲間由紀恵ファースト写真集『Pastel』の撮影秘話
1997年に発表された仲間由紀恵さんのファースト写真集『Pastel』も、山内順仁さんの代表的な作品のひとつです。
まだデビュー間もない頃の仲間さんを、柔らかくナチュラルな光で撮影し、その透明感を存分に引き出しています。
この作品に関しては、演出を最小限にとどめ、本人の素の魅力を捉えることに重点が置かれていたようです。
写真を見て「作られていない感じが良い」と感じた方も多いのではないでしょうか。
40代になってから改めて見返してみると、「若さ」だけでなく「未来の可能性」を写し取ったような感覚があり、今でも色あせない魅力を放っています。
家族との関係:元妻・山内乃理子さんと3人の子どもたち
山内順仁さんの私生活においても、多くの人の心に残る出来事がありました。
元妻は、モデルでタレントとしても活躍していた山内乃理子さん。
2人の間には3人の子どもがおり、離婚後も親としての関係は続いていたことが伺えます。
訃報が伝えられたのは、2025年8月。
山内乃理子さんが自身のインスタグラムで「元夫の写真家、山内順仁が7月31日に虹の橋を渡り永眠致しました」と報告しました。
この言葉からも、山内さんへの敬意と感謝の気持ちが感じられ、離婚から10年以上経ってもなお、心のつながりがあったことがわかります。
筆者も家庭を持つ身として、「夫婦」という関係を超えた“家族”の在り方について、深く考えさせられました。