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田宮俊作さんが死去!死因や経歴や学歴!90歳で逝去したタミヤ創業者の人生とは?

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田宮俊作さんが死去!タミヤ創業者の最期とは?

2025年7月18日、模型業界の巨星が静かに幕を下ろしました。
田宮俊作さんが、90歳で亡くなられたというニュースは、全国のプラモファンだけでなく、多くの昭和・平成世代にも衝撃を与えました。

田宮俊作さんは、世界的模型メーカー「タミヤ」の代表取締役会長を長く務め、ミニ四駆世代には神様のような存在でした。


自分も40代のシステムエンジニアとして、子どもの頃にミニ四駆に熱中した一人です。
あの頃は、同じクラスの男子でミニ四駆を持っていないって人がそもそもいなかったと記憶しています。
だから、この訃報には一種の驚きを感じずにはいられませんでした。

なお、死因は公にはされていませんが、田宮俊作さんの遺志により葬儀は近親者のみで既に執り行われたそうです。
後日、会社による「お別れの会」が予定されているとのことです。

田宮俊作さんの経歴と学歴まとめ

田宮俊作さんのキャリアは、まさに模型とともに歩んだ人生でした。
1934年に静岡市で生まれ、静岡県立静岡高等学校を卒業後、早稲田大学法学部に進学。
一見、模型とは関係なさそうなルートに見えますが、法律や経営の知識が後のタミヤの発展に大きく影響したのは間違いありません。

自分が思うに、法学部出身ってだけで「堅い仕事に就く人」というイメージがありますよね?
弁護士、司法書士、行政書士、極端なイメージですが(汗)
でも田宮俊作さんは、その型をぶち破って、模型という”遊び”の世界を、しっかり”ビジネス”に変えていったわけです。
なかなかできることじゃないですよ。

大学卒業後は、父・田宮義雄さんが創業した田宮商事合資会社に1958年に入社。
ここからが本当の意味で、田宮俊作さんの”プラモ人生”の始まりです。

1977年には田宮模型の代表取締役社長に就任し、1984年には株式会社タミヤの社長にもなりました。
そして2008年には会長職へ、2017年には一度退いた社長職にも再登板するという、まさに「現場主義」の体現者でしたね。

この行動力と責任感、個人的には「エンジニア魂」に通じるものを感じます。
作って終わりじゃなくて、最後まで“動くもの”を見届けるという姿勢は見習いたいところです。

さて、次は田宮俊作さんがどんなふうにタミヤという会社を育てあげ、どんな歴史を刻んできたのか。
タミヤというブランドの進化を追ってみましょう。

田宮俊作さんが築いたタミヤの歴史とは?

タミヤの歴史を語ることは、田宮俊作さんの人生そのものを語ることに等しいです。
田宮俊作さんが模型業界にもたらしたものは、単なる製品ではなく、”文化”そのものでした。

タミヤはもともと、木製の模型を製造・販売していました。
ですが、1960年代に入ると海外からプラスチック製のモデルがどっと流れ込んできて、一気に競争が激化。
そこで田宮俊作さんが決断したのが「木からプラへ」の転換です。
当時としては思い切った変革だったと思います。

これは筆者の仕事でもあるシステム開発でも同じで、環境の変化に応じて技術やアーキテクチャをアップデートしていかないと、すぐ時代遅れになるんですよね。
田宮俊作さんもまさに「時流を読む力」と「決断力」に長けていた方です。

1968年には世界最大級の玩具見本市「ニュルンベルク国際玩具見本市」に初出展。
そこからなんと、51年連続で参加し続けたそうです。
この数字、正直すごすぎて引きます。

タミヤの強みといえば、「組みやすさ」「壊れにくさ」「リアルさ」なんですが、それを徹底したのも田宮俊作さん。
カスタマーサポート部門を早くから整備し、ユーザー視点を徹底していたのも特徴的でしたね。

そして忘れてはいけないのが、タミヤの箱絵。


あれ、もう芸術ですよ。
僕も子どもの頃、組み立てる前に何分も見とれてました。
この箱絵文化、実は田宮俊作さんが「プロの画家」を起用して育てたものなんです。
上田毅八郎さんや髙荷義之さんなど、伝説級のイラストレーターが関わっています。

こうして、タミヤは「ただの模型メーカー」ではなく、「世界に誇れる日本のブランド」に進化していきました。

次は、そんな田宮俊作さんが生み出した”社会現象”ともいえる「ミニ四駆」について語っていきます!

ミニ四駆ブームの火付け役!田宮俊作さんの挑戦

昭和の終わりから平成初期にかけて、街のあちこちに「○○サーキット」なんていう貼り紙を見かけませんでしたか?
そう、それがミニ四駆ブームのピークです。本当に懐かしい…
そしてこの社会現象の中心にいたのが、田宮俊作さんです。

初代のミニ四駆が登場したのは1980年代半ば。
当時、タミヤはすでにスケールモデルやラジコンで名を馳せていましたが、ミニ四駆はその中でも異色の存在。
安価で手軽、しかもカスタム要素たっぷり。
子どもたちにとってはまさに「走るロマン」だったわけです。

当時は課金さえすればいろんなパーツをミニ四駆に組み合わせることができて、よりスピードが速くなったり、見た目もカッコよくなったり、そういうのが楽しかった記憶があります。

そしてミニ四駆って、ただのオモチャじゃなかったんです。
ギア比、重心、グリップ、空気抵抗まで考えるから、理系の子どもの思考力育成にめちゃくちゃ役立ってたと思うんです。
ある意味、「親が買ってあげても怒られないオモチャ」でしたね。

田宮俊作さんは、単に商品を売るだけでなく、店舗ごとの大会や全国規模のグランプリを企画。
参加型イベントとして発展させ、コミュニティを作り上げていきました。
これって、現代のITビジネスで言うところの「ユーザーエンゲージメント戦略」に近いですよ。

結局、ミニ四駆は田宮俊作さんの「遊びと学びを両立させる」哲学の集大成とも言える存在だったと思います。

「静岡ホビーショー」と模型文化の発信力

静岡といえばお茶?いやいや、模型でしょ。
…と、静岡ホビーショーの盛り上がりを見ると、そんなふうに言いたくなります。

このビッグイベントを「世界の模型都市・静岡」の代名詞にまで育てたのが、田宮俊作さんです。
1994年からは、静岡模型教材協同組合理事長として、毎年5月にこのイベントを牽引。
彼の熱意(いや、田宮俊作さんの熱意ですね)なしには、今のスケールには絶対になってなかったはずです。

静岡ホビーショーって、ただ模型を展示するだけじゃないんですよ。
業者とバイヤーの商談の場でもあるし、一般公開日には全国の模型好きが集結します。
つまり、”ビジネス”と”エンタメ”を絶妙に融合させたイベントなんです。

現場では、リアルなジオラマや最新モデルの展示に加え、プロモデラーの実演まであって、子どもから大人まで目を輝かせてました。
実際、「タミヤブース」の気合いの入り方が段違いでしたね。
新作ラジコンの試走スペースなんて、まるでF1のピットみたいでしたよ。

タミヤ=静岡というイメージが定着したのも、静岡ホビーショーの存在あってこそ。
こうした地域経済とホビーカルチャーの橋渡しをしたのが、田宮俊作さんの大きな功績のひとつです。

それでは最後に、田宮俊作さんの後継者や、これからのタミヤの展望について見ていきましょう。
会社の未来と、模型文化の次のステージはどうなるのか?

田宮俊作さんの後継者とタミヤのこれから

田宮俊作さんの死去にともない、気になるのは「タミヤの未来はどうなるの?」という点ですよね。
実はすでに後継体制は整えられていて、2024年7月1日付で孫婿の田宮信央さんが代表取締役社長に就任しています。

この「家族経営的な継承」は賛否あると思いますが、タミヤに関してはむしろ強みだと感じています。
なぜなら、模型というのは「数字だけでは計れない価値」が詰まった世界だからです。
田宮信央さんも若い頃から社内で経験を積んできた実績があり、「名ばかり社長」ではないことは明らかです。

実際、タミヤはすでに海外戦略や新商品開発にも積極的に動いていて、3Dプリンター用素材やデジタル工作へのアプローチも進んでいます。
ユーザー層も、かつてミニ四駆で遊んでいた世代が親となり、子どもと一緒に楽しむという”二世代市場”が形成されつつあります。

エンジニア的に言えば、「レガシーシステムを継承しつつ、最新テクノロジーを取り入れて進化中」といったところでしょうか。
言い換えれば、タミヤは今でもアジャイルに進化してるんです。
模型にDXを絡める時代が来るとは、10年前は想像もしてませんでしたね。

これからのタミヤには、田宮俊作さんの精神「品質第一」「遊び心」「誠実なものづくり」を受け継ぎつつ、新たな文化を生み出してほしいと思います。

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