大橋穣さん(昭和の名遊撃手)が死去

昭和のプロ野球を支えた名ショート・大橋穣さんが、2025年7月18日に亡くなりました。
都内のご自宅で息を引き取られたそうです。享年79歳でした。
すでに葬儀はご家族で執り行われたとのことです。
亡くなった日と死因は?最期の様子を解説
奥さまの芳子さんは、「長く苦しむこともなく、静かに運命を受け入れた」とコメントしています。
これだけで、大橋穣さんの人柄が伝わってくるようですね。
死因は公表されていませんが、きっと安らかに旅立たれたのだと思います。
筆者は40代のシステムエンジニアですが、仕事柄、何でも“記録を残す”ことが当たり前の感覚なんです。
でも、人生の終わりって、ログも残さず静かにフェードアウトしていくのが、実は一番美しいんじゃないかって最近よく感じます。
訃報に対する野球界やファンの声とは?
訃報が流れると、SNSでは「昭和の野球を思い出す」「守備といえば大橋穣さん」といった声が多く見られました。
まさに“記録より記憶”に残る選手。
特に守備での存在感は、今でも語り継がれるほどです。
成績うんぬんより、「ここにいてくれたら安心」って感じがあったんですよね。
プロ野球の世界でも、開発現場でも、“縁の下の力持ち”がどれだけ大事かは痛いほどわかります。
そんな頼れる存在が、また一人旅立ったと思うと、胸がじんとします。
大橋穣さんの経歴と球歴を振り返る
昭和のプロ野球界で“守備の職人”と称された大橋穣さん。
そんなレジェンドがどんな道のりを歩んできたのか、改めて振り返ってみましょう。
日大三高から亜細亜大学へ!学生時代の活躍
大橋穣さんは東京都新宿区で生まれ、日大三高で野球を始めました。
高校時代には甲子園にも出場し、チームをけん引する実力を発揮していました。
その後、早稲田を希望していたものの、最終的には亜細亜大学に進学。
東都大学リーグで通算20本塁打という当時の記録を樹立し、“長打のある遊撃手”として一目置かれる存在になっていきます。
筆者も小学生時代に算数のテストで県トップを取ったことがあり、あの時の高揚感と重なりますね。
「お前、こんなとこにもいたのかよ」って周囲がざわつく瞬間、ちょっとクセになります。
プロ入りと東映フライヤーズ時代のプレースタイル
1968年、大橋穣さんはドラフト1位で東映フライヤーズに入団。
同期には山田久志さん、星野仙一さん、田淵幸一さんなど、そうそうたる顔ぶれが並びます。
1年目から遊撃手としてレギュラーを獲得。
「スイッチトス」と呼ばれる美技で、当時のプロ野球ファンを驚かせました。
ちなみに、“肩が強くて正確なスローイング”って、今のシステム設計でいうと「バグのない高速処理」みたいなもの。
そんな逸材が1年目から動いてくれるなんて、チームとしてはめちゃくちゃ頼もしい存在だったはずです。
阪急ブレーブス時代と阪急黄金時代の活躍
1971年オフに阪急ブレーブスへ移籍。
ここからが、大橋穣さんの真骨頂とも言える黄金時代のスタートです。
名将・西本幸雄監督、上田利治監督のもとで、1975年からの4年連続リーグ優勝、3年連続日本一に大きく貢献。
不動のショートとして、守備の要として活躍しました。
仕事でいうと、まさに“絶対に落ちないシステム基盤”。
チームにとっての「止まらない鉄壁の守備」って、それくらいの安心感なんです。
次は、大橋穣さんが獲得した栄誉ある「ゴールデングラブ賞」について見ていきましょう。
どれだけ守備がすごかったのか、納得できるはずです。
大橋穣さんの守備と「ゴールデングラブ賞」7年連続の実力
“ゴールデングラブ賞”と言えば、守備の名手に贈られる最高の称号。
その創設初年度(1972年)に、パ・リーグの遊撃手部門で初受賞したのが大橋穣さんです。
初代受賞者にふさわしい守備力の秘密とは?
何がすごいって、ここから7年連続で受賞してるんですよ。
しかも、そのうち規定打席にすら届いてない年もあったのにです。
つまり、「打てなくても守備が神だから出てくれ」って言われるレベル。
筆者の職場にもいます、「あの人、営業はしないけど資料づくりは無敵」って人。
結局そういう人がプロジェクトを支えてくれるんですよね。
大橋穣さんもまさにそんなタイプ。
監督たちにとっては“絶対に外せないピース”だったはずです。
“スイッチトス”など印象的なプレー集
ファンの記憶に残るのは、やはり“スイッチトス”。
二塁手との連携プレーで、相手ランナーが「あ、もう間に合わん…」と悟る絶望の瞬間を何度も生み出しました。
現場の判断力、瞬間の反応、まさに匠の技。
YouTubeでも大橋穣さんのプレーを観られる動画があるので、ぜひチェックしてみてください。
では次に、引退後の指導者としての歩みを見ていきましょう。
実は海外でも高く評価されていたんです。
引退後のコーチ人生と指導者としての功績
現役引退後も、大橋穣さんは野球に関わり続けました。
指導者としても評価されていたんです。
オリックス・中日・ヤクルトでのコーチング実績
阪急からオリックス、そして中日ドラゴンズやヤクルトでもコーチとして活躍。
特にヤクルト時代は、あの“ギャンブルスタート”の走塁戦術を伝授し、日本シリーズの勝利に大きく貢献しました。
いわば、“社内の古き良き技術を、次の世代にちゃんと伝える人”。
ITの現場でもレガシーを知ってる人ってめちゃくちゃ大事なんです。
その立ち位置に、大橋穣さんがぴったりハマってたんでしょうね。
台湾・韓国など海外球団でも指導を続けた理由
日本だけにとどまらず、台湾や韓国の球団でも指導を続けていたのは驚きです。
それだけ“守備の知恵”を求められていたという証拠ですね。
知識も技術も持っているのに、ひけらかさず、でも必要とされるところへは飛び込む。
まさに“職人気質の名コーチ”。
引退後の人生も野球一筋、いや、“野球愛”そのものでした。
最後に、大橋穣さんのプロフィールや記録をまとめてチェックしてみましょう!
プロフィールまとめ|大橋穣さんの基本情報
ここでは、大橋穣さんの人物像をもう一度おさらいします。
気になる記録や受賞歴も、一覧でまとめました。
年齢・出身地・身長体重・あだ名「ペロ」など紹介
- 名前:大橋穣(おおはし ゆたか)
- 生年月日:1946年5月29日
- 没年月日:2025年7月18日(79歳)
- 出身地:東京都新宿区(富山県氷見市生まれ)
- 身長/体重:176cm/78kg
- ポジション:遊撃手(右投右打)
- あだ名:ペロ(打撃・守備時に舌を出すクセがあった)
現役時代の成績・タイトル・記録も一覧でチェック!
- 通算成績:1372試合/739安打/96本塁打/打率.210
- ベストナイン:5回(1972〜76年)
- ゴールデングラブ賞(当時ダイヤモンドグラブ賞):7年連続受賞(1972〜78年)
- オールスター出場:3回
- 日本シリーズ打撃賞:1回(1975年)
- 指導歴:阪急、オリックス、中日、ヤクルト、統一ライオンズ(台湾)、SKワイバーンズ(韓国)