【SING LIKE TALKING】西村智彦さんが死去
2025年6月5日、SING LIKE TALKINGのギタリスト・西村智彦さんが61歳で亡くなったというニュースは、音楽ファンの間に大きな衝撃を与えました。
ここではその訃報の詳細と、ファンや音楽関係者の声を交えながら、西村智彦さんの最後の姿を振り返っていきます。
少ししんみりする話ではありますが、感謝とリスペクトの気持ちを込めて書きました。
亡くなった日や死因は?
訃報が報じられたのは6月12日ですが、実際に亡くなられたのは6月5日とのことです。
西村さんは2023年にステージ4の喉頭がんであることを公表していました。
筆者も40代のシステムエンジニアとして思うんですが、第一線で40年近く走り続けるって、それだけで相当すごいことです。
仕事でも「一つのプロジェクトを10年」なんてほとんどない世界で、同じバンドで何十年も続けてきた姿は、まさに職人の生き様。
その意味でも、西村智彦さんは本物のプロフェッショナルだったと感じますね。
この訃報はSING LIKE TALKING公式サイトや各種メディアでも報道され、SNSでも「信じられない」「涙が止まらない」といった声が多く見られました。
ファンにとっては“青春を支えたギター”が、突然いなくなったような喪失感があるかもしれません。
西村智彦さんの経歴まとめ
SING LIKE TALKINGのギタリストとして知られる西村智彦さん。実はそのキャリア、思っていた以上に幅広くて驚きます。
音楽業界にいる人たちから「どこにでも現れる名手」と呼ばれていたという話もあるほどです。
ここでは西村智彦さんが歩んできた経歴と、バンド活動の中で築いてきた足跡を追ってみます。
青森県出身〜デビューまでの道のり
西村智彦さんは1964年1月25日、青森県に生まれました。
1988年、SING LIKE TALKINGのギタリストとしてデビュー。
ボーカルの佐藤竹善さん、キーボードの藤田千章さんとともに活動をスタートさせました。
デビューライブでは、なんとあのジェフ・ポーカロ(TOTO)やネイザン・イーストらと共演。これはもう伝説級のスタートです。
音楽に詳しくない人からすると「誰?」となるかもしれませんが、ポーカロもイーストも世界的なレジェンド級ミュージシャン。
例えるなら、いきなりマイケル・ジョーダンとバスケの試合をするようなもんです。
そんな豪華すぎるスタートから、約40年にわたるキャリアが始まりました。
SING LIKE TALKINGでの活躍と代表作
西村智彦さんのギタープレイは、SING LIKE TALKINGのサウンドに欠かせないピースでした。
1993年のアルバム『ENCOUNTER』や1994年の『togetherness』は、オリコンチャート初登場1位。
1997年の『Welcome To Another World』も初登場3位を記録するなど、バンドとしても大きな成功を収めました。
SING LIKE TALKINGの楽曲って、どこか都会的で、洗練されていて、それでいて温かい。
その音の質感を支えていたのが、西村智彦さんの柔らかくもキレのあるギターだったのは間違いありません。
40代エンジニア視点で言うと、この「一人で目立ちすぎず、でも核心をついてくる」スタイルって、プロジェクトチームにいる“絶対的な安心感のある人”みたいな存在でした。
これから先の見出しでは、そんな西村智彦さんの“音楽の原点”や、ソロ活動で見せたもう一つの顔を掘り下げていきますね。
西村智彦さんの学歴と音楽の原点
ギタリストとしてのテクニックはもちろん、その音楽センスの裏には、やはりしっかりした基礎と情熱がありました。
ここでは、西村智彦さんの学歴と、音楽を始めたきっかけに注目していきます。
武蔵野音楽学院で学んだこと
西村智彦さんは、東京にある「武蔵野音楽学院」の出身。
音楽系の専門学校としてはかなり有名で、多くのプロミュージシャンを輩出している学校です。
おそらくクラシックやジャズの理論をしっかり叩き込まれたうえで、実践的な演奏技術もみっちり鍛えられたのでしょう。
ギタープレイからは、コードのボイシングやリズムの切れ味に“育ちの良さ”がにじみ出てましたよね。
エンジニア目線で言うなら、独学のハッカーではなく、情報工学科できっちり基本を叩き込まれた技術者のような印象です。
理論と感性のバランスが絶妙だったのが、西村智彦さんの魅力のひとつでした。
音楽に目覚めたきっかけ
具体的なインタビュー資料は多く残っていないものの、青森の地で育った西村智彦さんが東京の音楽学校を目指すというのは、当時としてはかなりのチャレンジだったはずです。
地方出身者が夢を追って上京し、プロの道を切り拓く姿に共感する人も多いでしょう。
地方での小さなライブ、音楽仲間との出会い、挫折や迷い。
そういった“下積み”があったからこそ、西村智彦さんの音には芯の強さがありました。
このあと紹介するソロ活動の中でも、その原点は色濃く反映されています。
西村智彦さんのソロ活動と交友関係
バンドだけでなく、ソロとしても幅広く活動していた西村智彦さん。
その音楽性の広がりと、交友関係の多彩さは、音楽業界でも高く評価されていました。
ソロ名義でのリリースと評価
1992年にはソロシングル「That’s Life」を発表。
1998年には「バイバイ featuring 具島直子」、さらに「Maybe Tomorrow featuring Jane Child」などもリリースしています。
ジャンル的にはポップス中心ですが、R&Bやソウルの要素も強く感じられる、ちょっと大人な雰囲気が特徴。
2015年には『WONDERLAND』、2020年には『combine』というアルバムも発表しています。
40代システムエンジニア的な耳で聴くと、どの作品も「リラックスしつつ、どこか考えさせられる」そんな空気感。
深夜の残業明けに流したくなる、絶妙な“癒やし系サウンド”なんですよね。
共演したアーティストとの関係性
西村智彦さんの交友関係は、本当に幅広いです。
この人に声をかければ間違いない──そう思わせる安定感と信頼があったのでしょう。
IT業界のエンジニアの感覚で言えば、「あの人がプロジェクトにいるなら安心」って感じの、絶対的バックエンドエンジニアのような存在。
表に出すぎず、でもすべての核を支えてる。
まさに“裏方の王者”ともいえるポジションでした。
次はそんな西村智彦さんがどんなギターを使っていたのか、そしてプレイスタイルについても触れていきます。
西村智彦さんの使用ギターと音楽スタイル
ギタリストにとって“ギター”は単なる楽器ではなく、体の一部のようなもの。
西村智彦さんが愛用していたギターと、そのプレイスタイルの特徴を紹介します。
愛用していたギターや機材
音の抜けがよく、でも丸みのあるトーン。
「ここぞ」というときにスッと前に出てくる、でも出しゃばらない。
その絶妙な音作りは、エフェクターの選び方やアンプの調整にもセンスが光っていた証拠です。
機材ヲタクじゃない人からすれば「なんのこっちゃ」と思うかもですが、こういう人が使う機材って、音楽通にとっては教科書みたいなもんです。
演奏スタイルと評価されたポイント
派手な速弾きやテクニカルなソロよりも、楽曲全体を引き立てるサポート的なプレイ。
でも、よく聴くと“あれ?今のフレーズすごくない?”と思わせるさりげない凄みがありました。
たとえるなら、派手な魔法ではなく、地味だけど超強力な“支援系スキル”の持ち主。
バンドサウンドの中で常に最適解を選ぶ判断力、それを淡々と実行する冷静さ。
まさにエンジニア気質でもありますね。