片岡我當さんが死去|死因は肺炎で90歳だった

成駒屋の名跡を背負い、上方歌舞伎を支え続けた片岡我當さんが、2025年5月11日に90歳でこの世を去りました。
死因は肺炎で、東京都内の病院で静かに最期を迎えたそうです。
片岡我當さんの訃報に、歌舞伎ファンだけでなく文化人たちからも惜しむ声が多く寄せられています。
その理由は単に“名優が亡くなった”という話ではなく、我當さんが残してきた存在感そのものが、あまりにも大きかったからなんです。
片岡我當さんはここ数年は表舞台に出ることが減り、体調を気遣う声も出ていました。
2024年の秋頃を最後に公演のニュースが途絶えていたのも、その影響があったのでしょう。
ファンからは「もう一度あの舞台を見たかった」「もっと若手に教えてほしかった」という声も。
亡くなった事実を受け入れながらも、どこか現実感が薄い…そんな空気が流れていました。
片岡我當さんの経歴と学歴|同志社大学出身の異色の歌舞伎俳優
片岡我當さんは1935年、十三代目片岡仁左衛門の長男として誕生。
つまり、生まれた瞬間から歌舞伎界のサラブレッドだったわけです。
初舞台はわずか5歳。
1940年、大阪歌舞伎座で『堀川』のおつる役を演じ、「片岡秀公」の名で華々しくデビュー。
その後、1971年に「五代目 片岡我當」を襲名します。
でも驚くのはそこじゃありません。
実は片岡我當さん、同志社大学の法学部に進学しているんです。
昭和の歌舞伎俳優で大学進学はかなり珍しいこと。
当時、伝統の世界で「学歴をつける」というのは相当な覚悟だったはず。
IT業界でも同じですが、「技術職」って現場の腕が命。
そんな中で、理論を学ぼうとする姿勢は、むしろ柔軟で革新的にすら映ります。
若い頃は東京で二代目尾上松緑に師事し、江戸の荒事にも対応。
つまり、上方と江戸、両方の芸をバランスよく習得していたということですね。
では次に、そんな片岡我當さんが人生で演じてきた「当たり役」や「最期の舞台」について見ていきましょう。
片岡我當さんの当たり役と最期の舞台
片岡我當さんといえば、やはり“立役”が代名詞。
とくに晩年は、年齢を重ねた男の哀愁や誠実さをにじませる演技に定評がありました。
代表作は、『沼津』の平作、『新口村』の孫右衛門、『近頃河原の達引』の猿廻し与次郎など。
このあたりは、片岡我當さんの人柄そのものが役に乗り移っていたような印象すらあります。
あくまで“演じる”というより、“生きている”ように感じさせてしまうんですよね。
個人的には『熊谷陣屋』の弥陀六の鬼気迫る静けさが好きでした。
あの空気感、プログラムには絶対書ききれない“行間”がある。
そして、最期の舞台となったのは2024年秋に行われた『修禅寺物語』での夜叉王役。
セリフの重厚さもさることながら、最後の立ち姿に観客は拍手よりも静寂で応えたと聞きます。
まさに、幕を閉じるにふさわしい“円熟の一夜”でした。
続いては、片岡我當さんとその兄弟たちの関係性について掘り下げます。
あの“成駒屋三兄弟”の絆、胸が熱くなる話です。
片岡我當さんと三兄弟の絆|成駒屋の家系図も紹介
成駒屋は、歌舞伎界でもとびきり名門といえる家系。
片岡我當さんはその長男として、弟たち=片岡秀太郎さん・片岡仁左衛門さんと共に「成駒屋三兄弟」として知られていました。
まず家系図から少しだけ整理すると、
父が十三代目片岡仁左衛門、母方も歌舞伎にゆかりのある名家。
そして我當さんの弟・仁左衛門さんは、現在も現役で第一線を走っています。
この三兄弟がそれぞれ個性の異なる芸風を持ちつつも、家としての柱を支え合っていたのがスゴい。
一人だけが目立つのではなく、三人で一つの世界を築いていたわけです。
私もシステム開発のプロジェクトで「3人のバランス」がいかに重要か、何度も痛感しています。
一人が飛び抜けててもダメで、全員がそれぞれの役割を理解してるとチームが強くなる。
まさにこの三兄弟は、その理想形だったんじゃないでしょうか。
では最後に、片岡我當さんの「文化功労者としての功績」にも触れておきましょう。
舞台の外でも残した影響力は計り知れません。
文化功労者としての功績と後進への影響
片岡我當さんは、2005年に旭日双光章を受章。
さらに、重要無形文化財(総合認定)、文化功労者、京都府文化功労賞など、多くの名誉を得ています。
でも、それ以上に語り継がれるべきは、後進の育成にかけた情熱。
「歌舞伎鑑賞教室」など、学生向けの普及活動に力を入れてきたのはあまりにも有名です。
現代では、伝統芸能に触れる若者が減っているのも事実。
そんな中で、片岡我當さんは自らが講師役となり、言葉のリズムや物語の深みを伝えていました。
また、毎年8月に開催されている「上方歌舞伎会」でも指導役として若手を支え続けました。
これ、歌舞伎界の“夏合宿”みたいなもので、弟子たちにとっては非常に貴重な場だったようです。
プログラムでいえば、片岡我當さんは“最適化されたインフラ”。
前に出すぎず、でも絶対に欠かせない。そんな存在でした。