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上條恒彦さん(俳優)が死去!死因や経歴や家族!「出発の歌」の裏話とは?

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目次

上條恒彦さんが死去 死因と亡くなった時の状況は?

死去はいつ?亡くなった場所と死因

上條恒彦さんは、2025年7月22日に85歳で亡くなりました。
場所は長野県内の病院、死因は「老衰」だったとのことです。


闘病とリハビリの日々、そして最期の様子

実は2024年の終わりごろ、誤嚥性肺炎で一時は危篤状態にもなっていたそうです。
それでも、本人は復帰を目指してリハビリを続けていたというのですから、すごい精神力ですよね。

そして何よりすごいのは、亡くなる直前まで「また舞台に立ちたい」と強く願っていたこと。
その強い想いは、多くの舞台関係者にも伝わっていたようです。
まさに、「終わりまで現役」を体現した人生だったのではないでしょうか

上條恒彦さんの経歴と代表作がすごい!

「出発の歌」が大ヒットした背景と裏話

1971年にリリースされた「出発の歌」は、小室等さんが率いるフォークグループ「六文銭」と組んで歌われました。
当時、70万枚という驚異的なセールスを記録し、世界歌謡祭でグランプリも獲得。

筆者はこの曲、実は学生時代に音楽の教科書で出会いました。
「おぉ…知らないおじさまなのに、めっちゃ声が沁みる…」と衝撃を受けたのを覚えています。
あの太くて温かい声が、教室のスピーカーから流れてきたときの空気感、いまだに忘れられません。

今聴いても「出発の歌」って、メロディが妙に今っぽいというか。
令和の若者にもグッとくるんじゃないかと思います。


「3年B組金八先生」の服部先生役が印象的だった理由

1980年代の金八シリーズで、社会科の服部先生を演じたのも上條恒彦さん。
ひげと眼鏡の風貌に、どっしりとした佇まい。
「いかにも信頼できそうな先生」というイメージそのものでした。

筆者はIT業界に入ってから、何度もプロジェクトで“服部先生ポジション”に立つことがあったんですが、
どこかで無意識に上條恒彦さんのキャラをトレースしていたかもしれません。
無駄に焦らず、ちょっと渋めで、でも芯がある感じ。

あの役を演じていたときの上條恒彦さんの眼差し、今でも印象に残っています。
本当に「演じていた」というより「そこにいた」んですよね。


「ラ・マンチャの男」で948回出演した名舞台

松本白鸚との深い信頼と支え合い

「ラ・マンチャの男」といえば、日本のミュージカル界の金字塔的な作品。
上條恒彦さんは、この舞台で“牢名主”という脇役ながら超重要なポジションを、1977年から2023年の最終公演まで演じ続けました。
なんと948回…これはもう、ミュージカル界の職人技です。

主演の松本白鸚さんとの信頼関係も厚く、演技面でも精神面でもがっちり支え合っていたそうです。
裏方でも先輩でもなく「現場の空気を変える存在」って、どの職場にも必要ですよね。
エンジニアの世界でも、技術より“空気”を整える人が一番強かったりしますし。


「屋根の上のバイオリン弾き」主演も経験!

あまり知られていませんが、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の主演も務めていた上條恒彦さん。
故・森繁久彌さんからの“指名”でバトンを受け取り、見事にその大役を引き継いでいます。

主演って、ただ目立てばいいわけじゃないんですよね。
全体を見て、流れを感じて、調和を保ちながら自分の色を出す…これ、プロジェクトマネージャーとそっくり。

上條恒彦さんがその役をやり切れた理由、
たぶん「自分の役割を過不足なく把握してた」からなんじゃないかと感じます。
演技だけじゃなく、人としての力量を問われる役でした。


ジブリにも出演!声優としての活躍まとめ

「紅の豚」「千と千尋の神隠し」での役柄

声優としても印象深いのが、スタジオジブリ作品への出演。
「紅の豚」ではマンマユート団のボス、「千と千尋の神隠し」では無愛想な湯屋の従業員役など、独特の声で魅了しました。

筆者はアニメも大好きなんですが、あの声が流れてくると「おっ、上條さんじゃん!」ってすぐ分かるんですよ。
声優としての“存在感”が異次元でした。

あの太くて包み込むような声、AIボイスで再現するのは無理ですね。
ああいう声は人生経験がにじみ出てるからこそ成立するんだなと改めて思います。


声だけで魅せる表現力が話題に

声優としての上條恒彦さんの魅力は、やっぱり“声そのもの”に尽きます。
低音なのに温かい、不機嫌そうなのにやさしい…
その絶妙なバランスが、アニメの世界にぴったりだったんですよね。


上條恒彦さんの家族と晩年の暮らし

子どもたちも芸能界へ?家族構成と再婚後の生活

上條恒彦さんは再婚しており、妻の悦子さんとの間に家庭を築いています。
また、お子さんも芸能関係に関わっていたという話もあります。

ただ、家族についてはあまり公には語られておらず、プライバシーを大切にされていたようです。
個人的には、そこにも「昭和の男」らしい美学を感じました。
なんでもオープンな今の時代だからこそ、その姿勢が逆にかっこよく映ります。


自然に囲まれた長野の暮らしと農業ライフ

晩年は長野県の富士見町に移住し、約800㎡の畑で野菜を育てながら静かに暮らしていたそうです。
ブロッコリーや小松菜、大根など、かなり本格的な農業生活。

この話を聞いたとき、正直ちょっと憧れました。
筆者も都会生活の限界を感じたとき「いっそ田舎で畑でも…」と思うことがあるんですよね。
上條恒彦さんのように、仕事とは別の生き方を持つって、すごく豊かだなと感じます。

晩年まで自分らしい暮らしを貫いた姿勢に、心から拍手を送りたいです。

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