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釜本邦茂さんが死去!死因や経歴や家族構成、日本サッカー界の記録と伝説!

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釜本邦茂さんが死去!死因は肺炎だった

2025年8月10日、日本サッカー界のレジェンドである釜本邦茂さんが、大阪府内の病院で静かに息を引き取りました。
享年81歳、死因は肺炎。

釜本邦茂さんは2023年9月頃から誤嚥性肺炎で入院生活を送っており、秋には手術を受けて一時的に回復しました。
しかし、完全復帰には至らず、長い療養が続きます。
そして今年6月中旬、体調が急激に悪化。懸命な治療もむなしく、8月10日の早朝、最期の時を迎えました。

長く現場で走り続けた人ほど、ベッドの上での生活はつらいものです。
40代のシステムエンジニアとして日々椅子に縛りつけられながらコードと格闘している私でも、長く動けない不自由さは想像できます。
肺炎は見た目以上に体力を奪い、回復後も「前のようには動けない」という現実が付きまとう病気です。

サッカー界の「得点請負人」が、晩年に呼吸の病と向き合うことになったのは、なんとも皮肉に感じます。
しかし釜本邦茂さんは、最後まで諦めず、病気とも全力で勝負を続けました。
その姿勢は、ピッチ上でゴールを狙い続けた現役時代と何も変わらなかったのでしょう。




サッカー日本代表のレジェンドとしての経歴

釜本邦茂さんは日本サッカー史上屈指のストライカーとして、数々の伝説を残しました。
日本代表として国際Aマッチ76試合で75得点という驚異的な記録を持ち、今なお男子の日本代表最多得点記録保持者です。

現役時代は早稲田大学からヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に進み、国内リーグで通算202得点を記録しました。
得点王は7回、MVPも7回受賞し、その実績は他の追随を許しません。

40代エンジニア目線で言えば、この数字は「バグゼロで納期前倒し達成」を何十回も繰り返すようなもの。
つまり、普通の人が一生に一度できるかどうかのことを、当たり前のように続けていたということです。

次は、その中でも特に有名な東京五輪とメキシコ五輪での活躍を見ていきます。


東京五輪・メキシコ五輪での活躍

1964年の東京五輪では1得点のみでしたが、その悔しさをバネに、1968年のメキシコ五輪で爆発します。
大会通算7得点で得点王に輝き、日本の銅メダル獲得に大きく貢献しました。

特にナイジェリア戦でのハットトリックや、メキシコとの3位決定戦での2得点は今も語り草です。
杉山隆一とのホットラインは毎日100本近くのシュート練習で磨かれたもので、世界を驚かせました。

現代のサッカーでも、あの精度と決定力を持つ選手はなかなかいません。
「点取りガマ」の異名は、単なるあだ名ではなく、実力そのものを示していたのです。

次は、日本代表歴代最多得点記録の話です。


日本代表歴代最多得点記録の偉業

釜本邦茂さんが持つ75得点という記録は、1977年の代表引退から約半世紀が経った今も破られていません。
これは男子代表では唯一無二で、女子を含めても澤穂希さんに次ぐ偉業です。

現代の代表戦は交代枠が多く、試合数も増えていますが、それでもこの数字に届く選手は現れていません。
つまり、釜本邦茂さんの記録は、時代や環境を超えてもなお輝きを放ち続けているのです。

筆者はシステムエンジニアとして、数字に強いほうですが、この75という数字は本当に異常値。
日々の業務で言えば、バグ修正や機能追加の「成果数」が他人の何倍もある状態を、十年以上キープしている感じです。
普通はどこかでガス欠になりますが、釜本邦茂さんにはそれがなかった。まさに天性のストライカーでした。


引退後の活動と日本サッカー界への貢献

1984年に現役を引退した釜本邦茂さんは、その後もサッカー界の表舞台から姿を消すことはありませんでした。
1993年のJリーグ開幕時にはガンバ大阪の初代監督を務め、日本サッカー協会の副会長としても活躍。
さらには参議院議員として政治の世界にも足を踏み入れました。

指導者としてのスタイルは、戦術よりも選手との信頼関係を重視するタイプ。
練習場では冗談を飛ばしながらも、肝心な時はピシッと締める。
この「メリハリ」が若手選手たちの心をつかんでいました。

私も職場でチームをまとめる立場になることがありますが、やはり人間関係のほうが成果に直結する場面は多いです。
釜本邦茂さんの指導法は、サッカーだけでなく、組織マネジメントにも通じるところがあると感じます。


ガンバ大阪監督時代の挑戦

Jリーグが産声を上げた1993年、釜本邦茂さんはガンバ大阪の初代監督に就任しました。
当時は外国人監督が主流で、日本人監督は少数派。
そんな中で堂々と采配を振るった姿は、多くのファンに勇気を与えました。

ただ、結果は必ずしも順風満帆ではありません。
戦術面での試行錯誤や、プロの厳しさに直面する場面も多かったといいます。
それでも、選手を信じ、最後まで諦めない姿勢は監督時代も健在でした。

私もシステム導入プロジェクトのリーダーをしたことがありますが、予想外のトラブルやメンバーの離脱など、現場は波乱だらけ。
それでも「最後までやりきる」と思えるのは、結局、人と人との信頼関係があるからです。
釜本邦茂さんの采配にも、そうした信頼の力が感じられます。


日本サッカー協会での役職と功績

副会長や顧問として、日本代表やJリーグの発展に尽くした釜本邦茂さん。
特に2002年日韓ワールドカップの準備や、ユース育成プログラムの強化に大きく関わりました。

日本サッカー殿堂入りも果たし、その功績は公式にも刻まれています。
「釜本さんがいなければ、今の日本代表の強さはなかった」という声も少なくありません。

私自身、2002年W杯をリアルタイムで見ていましたが、あの大会での日本代表の奮闘は今も忘れられません。
あの舞台裏に釜本邦茂さんの働きがあったと思うと、さらに感慨深いです。


家族構成と人柄エピソード

釜本邦茂さんは家族をとても大切にしていました。
家族構成の詳細は公開されていませんが、妻や親族が支え合いながら闘病を見守ってきたといいます。

選手仲間やスタッフの証言によると、困っている人を見ると黙って手を差し伸べるタイプ。
豪快なプレーとは裏腹に、人間的な優しさがにじみ出ていました。

私の職場にもこういう「豪快だけど面倒見がいい人」がいますが、そういう人は自然と周囲の信頼を集めます。
釜本邦茂さんもまさに、そういう人だったのでしょう。


家族との関係と支え合い

闘病生活中も家族は常にそばにいました。
食事や生活リズムのサポートはもちろん、精神的な支えにもなっていたといわれます。

スポーツ選手にとって家族の存在は、試合以上に大きな力になるものです。
釜本邦茂さんの長い活躍の裏には、そうした支えがあったのは間違いありません。


周囲が語る釜本邦茂さんの人間味

現役時代から後輩やスタッフへの気遣いがあり、豪快な中にも優しさが光っていました。
後輩選手が遠征先で困っていると、さりげなく助けるなど、さまざまな場面で人間味が表れていました。

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