橋本友彦さん(プロレスラー)が死去…死因は肝臓がんだった

プロレスリングA-TEAMの代表として活動していた橋本友彦さんが、2025年8月5日に47歳という若さで亡くなりました。
死因は肝臓がんと発表されており、闘病を続けながらもリング復帰を目指していたことが報じられています。
この記事では、橋本友彦さんの訃報についての基本情報から、闘病の経緯までを詳しくまとめていきますね。
まずは亡くなった日や年齢、そして発表の経緯について見ていきましょう。
亡くなった日や年齢などの基本情報
橋本友彦さんが亡くなったのは、2025年8月5日午前7時55分です。
享年は47歳でした。
この訃報は、所属団体であるプロレスリングA-TEAMの公式X(旧Twitter)を通じて発表され、「突然のお知らせとなりましたことを深くお詫び申し上げます」と丁寧に報告されています。
団体側からの発信には、応援してくれたファンや関係者への感謝の言葉が綴られており、橋本さんの人柄が伝わってきました。
40代の自分もSNSでこのニュースを見たとき、思わず手が止まりました。
年齢が近いというだけでなく、闘病しながらも前向きに活動を続ける姿勢に、いつの間にか励まされていたんだと気づきました。
プロレスファンの中でも「また戻ってきてくれる」と信じていた人は多く、訃報の衝撃は大きかったようです。
肝臓がんと闘っていた闘病の経緯
橋本友彦さんが肝臓がんを公表したのは、2024年11月のことでした。
その後、患部の除去手術を受けたものの、2025年5月には再発が確認され、6月からは治療に専念するためリングを離れていました。
プロレスラーとしてリングに立ち続けるだけでも過酷な日々ですが、闘病を続けながら復帰を目指す姿勢は、多くのファンや関係者の胸を打ちました。
個人的には、同じ40代として「復帰する」という希望を持ち続けていた姿勢に共感しました。
技術や体力だけではなく、信念の強さが彼の強さだったのだと感じます。
さらに、2025年8月24日には復帰支援のためのチャリティ大会も予定されており、周囲の応援も熱かったことがわかります。
しかし、その大会を目前にして、橋本友彦さんは天に召されました。
ファンの多くが「また戻ってきてくれる」と信じていたなかでの突然の別れは、大きな喪失感を残しています。
橋本友彦さんの経歴まとめ!プロレスと格闘技に捧げた人生
橋本友彦さんは、インディープロレス界の象徴的存在として知られていました。
柔道で培った基礎を武器に、プロレスと格闘技の両方で存在感を発揮し、長年にわたってファンを魅了し続けました。
ここでは、橋本さんのプロレス人生を振り返りながら、その波乱に満ちた歩みを辿っていきます。
まずはデビューから注目団体への参戦までをご紹介します。
デビューはJPWA、DDTやPRIDEにも参戦
橋本友彦さんがプロレスデビューを果たしたのは、2000年4月14日。
デビュー団体は、故・木村浩一郎さんが率いていた「JPWA(日本プロ・レスリング協会)」でした。
その後、2002年にはDDTプロレスリングに入団し、独特のキャラクターと存在感で注目を集めていきます。
また、格闘技イベントへの参戦歴もあり、PRIDEの登竜門イベント「THE BEST Vol.2」や「INOKI BOM-BA-YE 2003」にも出場。
総合格闘家としては、アリスター・オーフレイム選手と対戦するなど、チャレンジ精神の強さが際立っていました。
個人的に驚いたのは、そこまでのビッグネームと対戦していたことです。
システムエンジニアの仕事もそうですが、未知の領域に踏み込める人って、本当に強いなと感じさせられました。
アリスター・オーフレイム戦など総合格闘技での活躍
橋本友彦さんは、プロレスの枠を超えた挑戦にも積極的でした。
2002年にはパンクラスで謙吾さんと対戦し、総合格闘技の舞台へと本格的に足を踏み入れます。
その後、PRIDEの関連大会やINOKI BOM-BA-YEといったビッグイベントにも出場し、アリスター・オーフレイム選手との対戦では大きな話題を呼びました。
試合はTKOで敗れたものの、名だたる強豪に真っ向から挑んでいく姿勢が多くのファンの記憶に残っています。
リングとは違うルールの中で戦う橋本さんを見て、技術以上に「覚悟」を持った選手だと感じた人も多いのではないでしょうか。
40代の中年おっさんの自分も、リスクを取る大切さや、「負けても価値がある挑戦」を改めて考えさせられました。
大企業の看板や安定を離れて自分のプロジェクトに挑戦した時の感覚に、どこか重なったんです。
橋本さんの挑戦は、勝敗を超えて「挑む姿」の尊さを教えてくれましたね。
TEAM MAKEHENからA-TEAM立ち上げまでの流れ
橋本友彦さんのキャリアは、選手としてだけでなく、団体運営者としても特筆すべきものがあります。
DDT退団後、自主興行「MAKEHEN(マケヘン)」を中心に活動を開始。
この興行では紫雷美央さんや紫雷イオさんのデビューをプロデュースするなど、若手レスラーの育成にも力を入れていました。
その後、「TEAM MAKEHEN」として団体化し、個性派レスラーが集まる独自のスタイルを築き上げていきます。
この時期の橋本さんは、完全に「現場監督」としての視点も持ち合わせており、エンタメ性と競技性を両立させたイベントづくりが印象的でした。
2016年に所属していたアパッチプロレスが解散すると、2017年にその後継として「プロレスリングA-TEAM」を設立。
団体の代表を務めながら、自らもリングに上がり続けていました。
現役と経営を両立するって、本当にすごいことだと思います。
筆者もプロジェクトリーダーをしながら現場作業にも関わっていた時期がありましたが、もう身体がいくつあっても足りないと思ったほどでした。
橋本さんのその姿には、どこか職人としての気骨を感じました。